白昼夢の世界

「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ」 - 詠み人知らず(古今和歌集より)

いつのころから、人は夢というものの奇妙さを知り、現実との比較を試みてきた。夢は睡眠中、脳が記憶を整理するために発生する事象だといわれているが、疲れているとき、あるいは病気になっているときほど、夢を見る頻度が高いように思われる。なぜだろうか。
おそらく夢は、日常の中で抑圧された「無意識」が「意識」にとって代わって脳を支配することで発生する。すなわち、意識(または良識)が疲弊して脳のコントロールを失えば、暴走した(ようにみえる)無意識が、欲望の欲するまま常識の枠を破壊し、魔訶不思議な夢を見せるのである。

いわば夢について思案することは、無意識という潜在的な自分と、意識という顕在的な自分との対話であり、真の自分を見つけるための有効な方法である。

「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」 - 江戸川乱歩

夢と現実は明確に違う。そう考えるのが我々の「常識」である。しかし、夢の摩訶不思議さに魅了された人々には、夢と現実の違いは存在しないと主張する者たちがいる。上の2つの見出しに書かれた文言が、そういった人たちの例だ。

紀元前300年ごろの中国の思想家である荘子は、有名な胡蝶の夢というたとえ話を通じて、夢と現実の違いのあいまいさを指摘している。しかし、荘子の思想はそれだけにとどまらない。荘子の理想とする生き方は、人生が夢であっても(蝶であっても)、現実であっても(荘子であっても)どちらでもいいとするものだ。それらの違いをはっきりさせることよりも大事なことは、どちらが自分にとって楽しい(都合の良い)ことかという点だけだ。この人生を達観した「逍遥遊」という生き方こそ、最も理想的な生き方だと筆者も考える。

Dream of Butterfly

しかし、現代の生活ではこのような考え方で生活するのは困難である。人は生まれた瞬間からどこかのコミュニティーに属し、社会のルールを守らねばならない。無責任なことができない世の中だから、つまらない。でも、そのような状況の中でも、ふと空想に耽り、脳内で無限の可能性を思考すれば、いつでも蝶になり羽ばたくことができる。

daydreamには空想、白昼夢という意味がある。同じことの繰り返しになる日常の中で、非日常とはいかないまでも、ふと空想を膨らませ、いろいろなことを考えよう。きっと楽しいに違いない。

<白昼夢編>カテゴリーの記事

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です