絶望 – 死に至る病

自分は死ぬはずだった。それをずっと遠い先のことにしていた。
いま自分は最高に絶望しているが、それと同時にいい詩が書けそうな気分になっている。
それはなぜかというと、非常な現実が自分を取り囲むほど、自分はより現実逃避に走る。
現実逃避に走れば走るほど、現実への未練を捨て、自分の精神は空中に高く舞いあがることができるからだ。

自分の中にカゲが生まれたのはいつだっただろう。
いつのころからか、自分の心にはカゲが住み着いていた。
それは決していなくならず、心の中に住まい続けている。
人の形をした黒いカゲ。ゆらゆらと揺れている。
カゲは日に日に増殖を繰り返していった。

カゲたちはずっと手招きをしている。
しかし、心の中にいる自分はそのカゲを見て見ぬふりを続けていた。
手招きをしてくるカゲに対して笑ってごまかし、なんとか逃れ続けていた。
でもある時気づいた。このカゲからは死ぬまで逃れられないと。
そしてこのカゲこそが絶望であると。

詳細は割愛するが今日は自分の人生にとって大きな転機となる。
世界線の分岐点に立っている気分だ。10年後の自分は笑っているだろうか…
これを見た10年後の自分が、激しく後悔して画面を殴りたくなっていないだろうか…
何を言っても気が休まらないが、一つだけ確かなことは、ここに書く前にすでに賽は投げられた。

社会と宗教

路地裏での出来事

 本日、夏用の服を買うため某服屋に行った。その帰り道、駅の階段を上ろうとしている最中に青年が話しかけてきた。彼曰く、「生きる土台となっているものは何か聞きたい」という。私は難しい質問だなと思い、しばらく考え込んでいると、その青年が「座って話をしましょう」と言い、私を薄暗い路地裏のスペースに招いた。そこは周りを建物に囲まれており、円柱状の椅子がぽつぽつと存在するだけの箱庭だった。
 この空間に私が誘われた際、まさかここから2時間近く激論を交えることになるとは思いもしていなかった。

 最初、青年は生きる土台について知りたいという態度だったから、私も一緒になって考えてみようと思っていたが、椅子につくなり青年は「顕正会の新聞のようなもの」を取り出した。この時点で、私の胸には何か嫌な予感がした。
 青年は新聞を私に見せながら、「生きる土台となっているものは生命力と運だ。」と語った。おいおい、生きる土台が分からなくて知りたいんじゃなかったのか、と心の中で突っ込みを入れながらも青年が一生懸命語り掛けてくるので、話を聞いてみることにした。

 要約すると、日蓮大聖人の教えを信じれば成仏が達成され、何やかんやあって世界が救われるらしい。また、教えを守らないと天変地異や外患(露、中、北)と戦争するような災厄が降りかかる。すなわち、正しい行いをして悪をやっつけようという典型的な勧善懲悪の思想を説かれた。

 私はそういった宗教の類は信じないので、青年にいろいろ反論をぶつけてみた。例えば、青年は「中国、北朝鮮は野蛮な国で、日本に攻めようとしている。しかし仏の国である日本は、日蓮大聖人の教えを守れば救われる。」と言ったのに対し、私は「中国、北朝鮮が日本の領土を奪ったことはない。しかし日本は、中国や朝鮮に攻めこみ領土を奪った。これのどこが仏の国なのか。」と返した。青年は答えられなかった。
 そこに、近くで話を聞いていたおじさんが話しかけてきた。急に表れたおじさんにあっけにとられていると、おじさんは青年に目を合わせた後、私にこう言ってきた。「私も顕正会の者なんだけど、ちょっとお話しできるかな?」相手方に増援が来たというわけだ。

 おじさん曰く、日本が朝鮮や中国に攻め込んだのは「罰」らしい。ちょうど小さい子が熱々のやかんに触ろうとしたときに親が「ダメでしょ!」と言いながら手をひっぱたくのと同じ。すなわち、しつけのためにやっているのであって、その動機は慈悲の心からだと言うのだ。もっともらしくおじさんは語っていたが、私はこの意見には賛同できない。
 たとえしつけのための罰だとしても、何百万人の人間を殺し、その人たちの土地を奪うことは、ダメだと私は思う。そんな教えの宗教には賛同できない。やっていることがキリスト教の十字軍と一緒だ。

 また、私はおじさんにこう尋ねた。「なぜ日蓮大聖人は人間しか救わないのか?」おじさん曰く、人間と動物では知性が違うから、動物は仏になりえない。と。
 私はチャールズ・ダーウィンの創造論を借りて次のように論じた。「人間はサルから進化したのに、サルが救われずに人間が救われるのは都合がよすぎる。同様の理由で、生きとし生けるもの中で人間だけが救われると考えるのは傲慢ではないか?」と。

 私が生意気そうに現代科学の常識を持ち出した矢先、おじさんは衝撃の一言を口にした。
「君って、進化論を信じているの?」
 私はこの一言を聞いた瞬間、この人と私は一生、分かり合えることは無いんだなと感じじた。私は動揺を隠すために「はい。そうです。」と軽く返事をしたが、内心、価値観を合わせられない悲しさを感じるとともに、宗教の魔力を思い知った。

宗教は薬か?麻薬か?ウイルスか?

 現代のアメリカにおいても、キリスト教の創造論を信じている人は人口の半数近くに上る。そういった人たちは、人がサルから進化したという、ダーウィンの進化論は嘘っぱちだと主張しているが、もう既に宗教は、現代科学と啓蒙思想に敗れたのだ。よいか悪いかは別として。

 とは言いつつも、宗教にはまってしまうのも無理はない。宗教は大きく分けて2つの成分を通じて、私たちの心の支えになっているからだ。1つ目は、罪の浄化である。


 人類が最初に”罪”の意識を覚えたのはおそらく、食肉を得るために動物を殺したときだろう。アブラハムの宗教でいえばこれが原罪(アダムがリンゴを食べたからというのは抽象化のための作り話)と呼ばれるものの正体で、インドの宗教でいえば、業と呼ばれるものの正体である。

 人が生きるためには、動物を殺さなくてはならない。その罪を、人間が受け入れるのはとても苦しいことだ。誰かに罪を擦り付けるか、適当な言い訳を考えねばならない。アブラハムの宗教では、神が人間に生きとし生けるものすべてを統治する権限を付与したから、この殺生が許されるという、自己中心的な教えがある。つまり、神に罪を擦り付けている。インドの宗教では、動物(畜生道)に生まれたものは前世で罪を犯したからその罰だという言い草で、自分たちの殺生行為を正当化しようとしている。

 人は罪を認めたがらない。罪を認めれば、自分が罰せられてしまうと思っているからだ。
 宗教を信じてさえいれば、自分の行為は神仏のもとに正当化される。正当な理由なくして、このような残虐な行為は不可能である。心が壊れてしまう。

 2つ目、宗教は生きる意味をくれる。これは以前、宗教における生きる意味について語ったので、そちらを参照してほしい。端的にまとめると、アブラハムの宗教では正しい行いをして天国に行くこと。インドの宗教では徳を積んで、永遠の苦しみから解放されることを生きる目的としている。

 宗教はいわば、精神安定剤として機能している。ただしその依存性は強く、一度はまったら抜け出すことは不可能に近い。そう考えると、麻薬と呼んだほうが正しいか。
 また、宗教は感染症のように伝染する。これが非常に厄介な性質で、洗脳された人々は布教活動を通じて周りの人の思想を塗り替え、新たな信者を生み出す。この性質は癌ともウイルスとも呼べるだろう。

 いずれにしろ、私は宗教に溺れる人は心の弱い人間なんだろうなと思う。ニーチェが言ったように、宗教に頼らずに生きてこそ初めて、人間の理想である超人になることができると私は考える。まあ、当のニーチェ本人が宗教を止めたとたん発狂して死んでしまったから難しいだろうが。

 もう1つだけ私の確固たる意志を述べさせていただくと、宗教という伝染病をばら撒いた預言者たち(prophets)を、私は心底尊敬しない。

正義と悪

 ほとんどすべての宗教は善を勧め、悪を懲らしめる高き理想を掲げている。正義のヒーローになりたくて人々はみな、宗教にのめりこんでいく。しかし、そして実際のところ、いくら高い道徳心をもってしても世界は救われない。思い出してみよう。この世はゼロサムゲームだということを。

 誰かを救うことは、誰かを陥れることになる。生きることは、殺すこと。悪が消滅すれば、正義はどうなる?光があるところに影はある。創造は破壊からしか生まれない。

 これらは皆、表裏一体なんだ。片方が存在するからもう片方が存在できる。悪役のいじめっ子がいるから正義のヒーローができる。裏を返すと、悪が破滅すれば、正義も破滅する。

 悪を罰するべきという考えが広がりすぎている。皆が皆、正義のヒーローになりたいと思うから、正義の剣を振りかざして気持ちよくなりたいから、この世には悪役が不足している。悪役がいなければ、でっちあげるしかなくなる。そして作り上げた悪と正義の間に戦いが始まる。つまり………正義が争いを生み出している…。

 正義を求め続ける限り、争いは終わらない。私は正義を諦めることにこそ、平穏かつ高尚な人生を送るためのカギが隠されているのだと思う。

罪と罰

 「罪を犯した者は罰せられる。」

 これは宗教の有無によらず、私たちの常識となっているが、なぜ罰せられるのかについて深く考えている人は少ないだろう。ごく稀に、罪は存在するがそれに対応する罰が存在しないものもあるが(売買春など)、そういう例外は置いておいて、ここでは罪に対して1つ1つ対応する罰があると考えることにする。

 実は、この概念にはコペルニクス的転回が適用できる。つまり、「罪を犯すから罰せられる。」のではなく、「罰せられる行為が罪となる」というのが正解だ。

 たとえば人を殺すと、社会によって罰せられる。だから殺人は罪なのだ。
 ものを盗んだら、社会によって罰せられる。窃盗も罪である。

 でも、もし時代が原始時代で、社会システムが存在しなかったとき、殺人は罪になりえただろうか?窃盗は罪になりえただろうか?
 罰が存在しない時代では、罪という概念もまた存在しえない。すなわち、罪という概念は社会が生み出したものに過ぎないのだ。

 罪と罰の対応表が法律である。ハンムラビ法典は太古の昔に作られた法律として有名であるが、罪と罰の対応関係は現代の法律とは全く異なる。「目には目を。歯には歯を。」といった感じで、身分の同じ被害者と加害者には同害復讐の原則があった。しかし、現代の法律ではたとえ相手の目をつぶしたとしても、自分の目をつぶされる心配はないだろう。

法律:社会における聖書

 法律は時代によって、罪と罰の換算レートが変わる。また、時代が進むごとに新たな罰が必要とされ、それによって罪も新たに作られる。たとえば、著作権を犯すことに対する罰は、中世のころは無かった。しかし現代では、その行為を取り締まるための罪と罰が定義されている。

古い時代には、著作権侵害は罪ではなかった。

それが現代において、著作権侵害は犯罪だという認識が我々の常識となっている。時代が進むにつれ、社会というものは自身の都合のいいようにルールを変え、人々にそのルールを強要してきた。人々はルールを刷り込まれ、いつの間にかそれを常識と信じて止まない。

 これは宗教ににている…?

 私は、この社会と宗教というものが非常に似ていることに気づいた。両者は自分たちの都合のいいようにルールを作り替え、人々に常識として刷り込み、洗脳してきた。我々は自分たちがおかしなルールに囚われていることに気づいていない。だから、罪を犯したことに対して罰則があることを疑いもしない。極端なことを言うと、人を殺すことは悪であると思い込んでいる。でもそれはナゼ?

 その常識はどこから来たのか。誰が決めたのか。世界が宇宙が決めたことなのか。悪とは何だ。どんな時代でもその原理原則は存在したか?

常識を疑え。

 私は、人の心の弱みに付け込み、洗脳する「宗教」というものを激しく非難してきた。しかし、それがどうしたことか。私自身、「社会」という宗教を盲信し、そのルールに囚われて生きてきてしまった。そしてこれからも、「社会」という蜘蛛の巣から脱出するすべは見つけられないだろう。蝶は生まれた瞬間から、蜘蛛の巣の中に居たんだ。

私に宗教を批判する資格はないのかもしれない。

 

宗教の目的

四大宗教における生きる意味

これまでの投稿で、生きる意味について持論を述べてきたが、この世には宗教と呼ばれるものがあり、そこにも生きる意味は提示されている。今回は宗教で提示されている生きる意味について、ツッコミを入れていきたいと思う。

キリスト教

キリスト教における生きる意味は、最後の「審判の日」に天国へ行くことである。

審判の日とは世界が終焉する日で、人間はそれまでの行いを基に地獄か天国へ行くことになる。地獄に行った人間は永遠の苦しみを味わうことになり、天国へ行った人間は永遠の快楽を得られる、というものである。

要するに苦から逃れて楽をしたいという願望を叶えることが、キリスト教の目標である。

ここまでは、至極真っ当なことを目標として掲げている気はするが、結局のところ、世界の審判の日とやらはいつまで経っても現れない。

簡単な話だ。審判の日というものは無いのだから。

キリスト教の信者たちは聖書に書かれたことを守っていればいつか必ず報われると信じているようだが、そのいつかがいつまで経っても現れない。

今までの歴史上、熱心な信徒(パウロやルターなど)が自分の人生をかけてまでキリスト教の教えを忠実に守り、審判の日を渇望しながら死んでいってからもう何世紀もの時間が立ったが、結局のところ審判の日は来なかった。

イエスがほらを吹いてから2000年近く経ったってのに。

存在しないものをずっとねだって探している信者たちを見ていると呆れてしまう。キリスト教の信者たちに問いたい。あなた方は具体的にいつ審判の日が来るのか答えられますか?

それが答えられない。もしくは示されてないのであれば、それは完全に嘘っぱちの話だ。

最後の審判の日が来ないとして、キリスト教の信者たちは何を生きる意味と答えるだろうか?

イスラム教

イスラム教も所詮、キリスト教やユダヤ教と同じアブラハムの宗教である。あのあたりの宗教はみんな同じことを言っているに過ぎない。

世界の終焉を望んでいる。

世界が終わる審判の日が来れば、信心深い自分は天国に行けるのだ。と考えているようだが、先程のキリスト教と同じように審判の日はやってこない。いつまでも。

アッラーの啓示をムハンマドが受けてからもう何年経った?1400年ほどは経っただろう。

その間に何億人もの信者たちが世界の終焉を待ち望みながら一生を終え、結局のところ終焉は訪れなかった。

もういい加減、預言者というものがただのホラ吹きだったということに気づくべきなんだ。

とはいっても、この歪んだ事実の渦中に居ながら、これが歪んでいて虚空だということを知るのは、常人には難しいことも理解できる。

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教はインドの宗教で、先程のアブラハムの宗教とは性格が異なる。

世界宗教と呼ばれるものはおおかた、アブラハムの宗教とインドの宗教しかない。しかし、どちらが優れているかは明白である。インドの宗教である。

古代のインド哲学はウパニシャッド哲学と呼ばれている。この哲学は輪廻思想と呼ばれる非常に高度な概念を持っている。

人間は生まれ変わる。他の生き物に。

これがインドの宗教が持つ輪廻思想のすごいところで、人間と動物たちを区別しないという思想が2000年以上前に存在しているということは非常に驚くべきことである。

キリスト教やイスラム教では、人間は神が直接作ったもので、他の生き物とは明確に区別されている。人間は神のかわりとなって、他の生き物たちを支配する特権があるという、ある種の自己中心的な考え方があるのに対し、インドの宗教では、そういった考え方は無い。

だから、チャールズ·ダーウィンが、人間は猿から進化したという進化論を突きつけたとき、アブラハムの宗教は現代科学に敗北した。

その一方、ヒンドゥー教は人間と他の動物を明確に区別していないお陰で、現代科学の追求にもある程度弁明可能なほど、優れた哲学を備えているのである。

では、人間としての生きる意味を否定したヒンドゥー教は、何を持って生きる意味としているのだろうか。

ヒンドゥー教の目的は、輪廻からの脱出である。

人間は、その瞬間に人間としての身体を持って生きているだけであって、本質はアートマンと呼ばれるものである。とヒンドゥー教は説く。

アートマン(魂)は、前世のカルマ(業)の善し悪しによって、時には動物として生まれたり、時には植物として生まれる。

そして繰り返す「生」と「死」の無限ループ…

これに閉じ込められた状態を「苦」とした。

ヒンドゥー教では、アートマン(我)と、ブラフマン(梵天)が一致した時、この苦しみの無限ループから抜け出せるとしている。

輪廻からの脱出…すなわち解脱を達成すれば、アートマンは永遠の快楽に満たされる、とのことだが、結局のところ、最終目標はアブラハムの宗教と同じく永遠の快楽に身を委ねることである。

ヒンドゥー教の考え方は確かに、アブラハムの宗教よりは高度で洗練されていると思う。

しかし、この思想も嘘である。現代科学によれば、この地球に生命が存在しない瞬間(アートマンも存在しない瞬間)があったからだ。これは、アートマンが不滅であるというヒンドゥー教の教えに反する。

解脱をするためのアートマンもない、カルマも架空のものだった。輪廻思想なんて嘘っぱち。そんなときにヒンドゥー教徒は、なんのために辛い修行を続けるのだろうか?

仏教

仏教は現在のネパールとインドの国境あたりで、ゴータマシッダールタという人物によって始められた。2000年以上前のことだ。

思想のベースとなっているのはやはりインド哲学である。輪廻思想もある。

本場のインドでは流行らなかったみたいで、どんどん東の地に広まっていった。インドから東南アジア、中国、韓国、日本へ。

伝わっていく道中で、様々な国の影響を受けた。元々サンスクリット語で書かれた経典は、中国語になり、日本まで伝わってきた。日本に伝わるまで1000年以上かかったらしい。

だから日本で信仰されている仏教は、ゴータマシッダールタが作った仏教とは大きくかけ離れたものとなっている。所詮、スピンオフだ。

まあ、伝言ゲームの途中で内容がめちゃくちゃになってしまう現象は何も仏教に限ったことでは無いが…。

仏教とヒンドゥー教の違いはあまり無い。キリスト教とイスラム教が似ているのと同じ理屈だ。

強いて言うなら、仏教は差別を推奨していないが、ヒンドゥー教にはある種の選民思想がある。

ヒンドゥー教という名前自体が、インドの民という意味だし、民族内においても、カルマによって人生における立場が決まっているという思想(カースト思想)が蔓延っている。

したがって、仏教はヒンドゥー教の規制を緩くしたものと考えることができ、万国の民に受け入れられる思想であると言える。

そのため、仏教は世界の宗教と呼ばれるに至った。実際、インド国内でもアウトカースト(不可触民)と呼ばれる被差別階級の人たちに対して、仏教はウケが良いらしい。

そんな仏教における生きる意味は、やはり輪廻からの脱出である。ほとんどヒンドゥー教と変わりない。

ここまでの話をまとめると、宗教は苦から逃れ、楽を享受することを目的としていることが、理解できると思う。

生きる意味が苦からの脱出なら、次は何が「苦」で何が「楽」なのか考えていきたいと思う。

生きる意味は?

人間として生きる意味

人間だれしもが一度は突き当たる究極の問題。日常生活のすべての行動の支えとなる理由。太古の昔より賢者たちが議論を交わしてきたにもかかわらず、未だに解決されない問題。

生きる意味と聞かれて、言葉に詰まる人は多いのではないか。はたまた、生きる意味について深く考えていない人もいるだろう。

この究極の問いに答えを出す人は、ほぼ必ず人間としての生きる意味を答える。

おいしいものが食べたいから。 楽をしたいから。 好きな人を幸せにしたいから。

生きる意味を探すため。 死ぬのが怖いから。

生物として生きる意味

でも、生きているのは何も人間だけではない。サルだって生きてる。カゲロウだって生きてる。その辺に生えてる木だって生きてる。細菌だって生きてる。

何のために?

生きる意味というものは、実際は無い。

ひどく抽象化されているから、あまりピンとは来ないけれども、本当に無い。

生きることは本能なんだ。無意識的というか、機械的というか。

心臓の鼓動を意識的に止められないのと同じ。息が無意識に行われているのと同じ。いわば自分たちは生かされている。無意識の自分に。

これを聞くとひどく落胆する人も多いだろう。自分は苦労して、能動的に、希望をもって生きてきたはずなのに、勝手に生かされていただけなんて。

でも、ここで一つ疑問が生まれる。「じゃあ、今落胆している自分はだれなのさ。」

それが、この問いのミソなんだ。

意志の力

ここで意志という単語が出てくる。

意志は自分の意識の中で、何かを正しいと信じている部分だ。意志は強い力を持っている。

未来を変える力。

これこそが意思の持つ特別な能力で、生きる原動力ともなる力である。

ニーチェは言った。

超人となるためには、強い意志を持たなければならない。と。

ここで最初の問題提起に振り返る。

生きる意味は?

答えは以下の通りである。

生物としての生きる意味はない。

ただし、意志を持つものの生きる意味は、自分の意志がどれほど強く、そしてどれほど世界を動かせるか試すことにある。

もしそれが嫌なら、自分の意志で自殺するがいい。それもまた、意思の持つ力を示すことになる。自分の命を奪えるほど強いことを。

この世はゼロサムゲーム

世界のルール

筆者が大学生だった頃、サークルの友人と食事する機会があった。その時、前後のことはあまり覚えていないが、ふと友人の一人が「この世界はゼロサムゲームだから。」とつぶやいた。その場に同席していたほかの友人たちは気にも留めていなかったが、私はこの言葉に対して非常に興味をそそられた。

ゼロサムゲーム — 全員の利害の総和が0になるゲーム。サッカーとか野球は違う。麻雀やポーカーが該当。

端的に言えば、誰かの利益は誰かの損害で成り立っているという意味だ。

この世界は弱肉強食を唯一のルールとし、強者は弱者から幸せを奪えるゲーム…
そういうことを言いたいんだと思う。

幸せはどこから来るのか

思えば筆者が享受している幸せというものは、すべて他者から奪う(もしくは他者に不幸を与える)ことで得られているものである。

例えば、良質なものが安く入手できること。モノにあふれた現代では、あちらこちらで安く高品質なものが購入できるが、それは誰かが汗水流しながら働かされて生産されているものかもしれない。その誰かというのは、おおかた貧困に苦しむ発展途上国の人だろう。豊かさの裏には必ず貧困が隠れているものだ。

もっと深い例でいうと、食事の幸せ。おいしいものを食べればそれだけで幸せな気分になれる。しかしどうだろう。食べられる側は幸せなのだろうか。きっととてつもなく不幸なことだろう。

自分の幸せは他者の不幸

こんな話もある。

「辛いって字に一本足すと幸せって字になるでしょ。」

「でもその一本ってどこから持ってくるの?」

「誰かの幸せから奪ってくるんだよ。」

誰かの幸せは誰かの不幸。全員が幸せになることなんてできない。それがゼロサムゲーム。

不都合な真実 その①

よく世間では、世界の平和を願っている人たちがいる。みんなを幸せにしたいと思っている人がいる。しかしそれは、この世界のルールに反する行いだ。

生きるということは、誰かを殺すこと。

自分が幸せになることは、誰かを不幸にすること。

この不都合な真実から目を背けてはいけない。

※ ここにおける「他者」「誰か」は生物全般を指す。人間に限らない。

白昼夢の世界

「世の中は夢かうつつかうつつとも夢とも知らずありてなければ」 - 詠み人知らず(古今和歌集より)

いつのころから、人は夢というものの奇妙さを知り、現実との比較を試みてきた。夢は睡眠中、脳が記憶を整理するために発生する事象だといわれているが、疲れているとき、あるいは病気になっているときほど、夢を見る頻度が高いように思われる。なぜだろうか。
おそらく夢は、日常の中で抑圧された「無意識」が「意識」にとって代わって脳を支配することで発生する。すなわち、意識(または良識)が疲弊して脳のコントロールを失えば、暴走した(ようにみえる)無意識が、欲望の欲するまま常識の枠を破壊し、魔訶不思議な夢を見せるのである。

いわば夢について思案することは、無意識という潜在的な自分と、意識という顕在的な自分との対話であり、真の自分を見つけるための有効な方法である。

「うつし世はゆめ 夜の夢こそまこと」 - 江戸川乱歩

夢と現実は明確に違う。そう考えるのが我々の「常識」である。しかし、夢の摩訶不思議さに魅了された人々には、夢と現実の違いは存在しないと主張する者たちがいる。上の2つの見出しに書かれた文言が、そういった人たちの例だ。

紀元前300年ごろの中国の思想家である荘子は、有名な胡蝶の夢というたとえ話を通じて、夢と現実の違いのあいまいさを指摘している。しかし、荘子の思想はそれだけにとどまらない。荘子の理想とする生き方は、人生が夢であっても(蝶であっても)、現実であっても(荘子であっても)どちらでもいいとするものだ。それらの違いをはっきりさせることよりも大事なことは、どちらが自分にとって楽しい(都合の良い)ことかという点だけだ。この人生を達観した「逍遥遊」という生き方こそ、最も理想的な生き方だと筆者も考える。

Dream of Butterfly

しかし、現代の生活ではこのような考え方で生活するのは困難である。人は生まれた瞬間からどこかのコミュニティーに属し、社会のルールを守らねばならない。無責任なことができない世の中だから、つまらない。でも、そのような状況の中でも、ふと空想に耽り、脳内で無限の可能性を思考すれば、いつでも蝶になり羽ばたくことができる。

daydreamには空想、白昼夢という意味がある。同じことの繰り返しになる日常の中で、非日常とはいかないまでも、ふと空想を膨らませ、いろいろなことを考えよう。きっと楽しいに違いない。